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海に還る日
傷心
sorrow
 潤がそこに居合わせたのは、偶然だった。

「?騒がしいな……」
 従兄から借りた本を返すために、伯父の経営する病院を訪れると、ばたばたと走り回る看護婦たちが目についた。
 搬送用の入り口を見ると一台の救急車が止まっている。
 ここは救急病院ではないから、他の救急病院で手に負えない患者が運ばれて来ているということだ。
 行き来する医師の中に、脳外科医の従兄を見つけた。
「頭、か……」
 病院では別段珍しいことではないので、そのまま従兄の診察室へと向かい、本とメモでも置いて帰ろうと踵を返した。
「どいてください!!」
 背を向けた治療室から出てきた看護婦が慌しく潤を押す。
 それに素直に従う。
 この先にはCT室がある。
 頭部の損傷ならば、当然使うものだ。
 続いて、ストレッチャーが潤を追い抜いていく。
 それを何気なく見やって――。
「なっ!」
 潤には珍しく、一瞬思考回路が真っ白になった。
「上総(かずさ)兄さん!」
 ストレッチャーの後を走る従兄を呼び止める。
「潤」
 一瞬、足を止めるがすぐに走り出す。
 潤はそれを追いかける。
「どうしたんですか?」
「交通事故さ。道路に飛び出した子供を庇ったらしい」
「馬鹿なことをっ」
 吐き捨てるように呟いた。
「潤?」
 いつにない従弟の動揺に、思わず振り向いた。
「上総兄さんっ!あの人を死なせないでください!!いいですね!?」
「知り合いなのか!?」
「ええ。恋敵ですよ」
 言い捨てて踵を返す従弟の背を見つめる。
「先生!」
 看護婦の声で、慌てて我に返った。

「ちくしょう…なんで……」
 無意識に呟きながら病院の建物から出るために出口に向かうが、出口までが異常に長く感じる。
 我慢しきれず携帯を取り出すと、出る前に電源を入れ、手に馴染んでいる番号を押す。
 コール音2回で相手が出た。
「――佐伯です。雫さん、すぐに佐伯総合病院まで来てください」
 声が震える。
「千晶さんが、事故で――」
 後は声が詰まった。
 そこで、初めて自分が泣いていることに気づいた……。

「佐伯くん」
 手術室の前。
 雫の声に振り向いた。
「どういうことなの?」
 走ってきたらしく、乱れた呼吸のまま問う。
「……圭吾さんには?」
「連絡、した。すぐ来る――」
「――子供を庇ったそうです……」
「子供?」
「はい。たまたま目の前で子供が飛び出し、そこに車が突っ込んできて……。千晶さんは子供を突き飛ばして、その車に――」
「なんでっ……」
 いつも自分勝手で、人の事なんか全く考えないのに―。
 なのに、なんで見ず知らずの子供を庇って、こんなことになったのだろうか……。
 千晶らしくなく、そして何よりも千晶らしく感じた。
「頭部を強打していて、それで……」
 危ない状況だとは言えなかった。
 それは、雫も潤もわかりきったことだったから――。
「あいつが、そう簡単にくたばるわけない――」
「圭吾……」
 いつの間にか、背後に圭吾がいた。
 雫の声に、ほんの少し安堵が込められる。
 その肩を抱いてやる。
 わずかに体が震えている。
 それを宥めるように肩をさすってやる圭吾の手もまた、震えていた。
 千晶を失うかもしれない恐怖――。
 それは、死ぬことよりも怖いと感じているかもしれない。

 永遠に続くかと思った時間――。
 扉の向こうの慌しい気配がなくなったことを、3人とも感じていた。
 それが、何を意味するのか……。
 手術中のランプが消えた。

「上総兄さん……」
 手術用のマスクをはずしながら、出てきた従兄に恐る恐る訊く。
 上総は、ゆっくりと首を振った。
「え……?」
「……手の施しようがなかった……」

 ――テノ ホドコシヨウガ ナカッタ――

 上総の言葉が、頭の中で木霊する。
「……死ん、だのか……?」
 圭吾の言葉に、ビクリと腕の中の肩が震えた。
「残念だ……――」
 上総が頭(こうべ)を垂れる。
 ずるりとへたり込む雫を支えてやることはできなかった。
「雫さんっ」
 潤が歩み寄り、その体を抱きしめてやる。
「……そだ…。嘘だ……、あいつが死ぬわけないっ!」
 圭吾が悲鳴のように叫ぶ。
「君っ!」
 上総を突き飛ばすように手術室へと走る。
 治療台の上に、よく知った躯があった。
 ぬけるように白い肌は、いつもと変わりないように見える。
「千晶?」
 ゆっくりと近づく。
「千晶?」
 もう一度呼んでみる。
 しかし、閉じられた瞼は開く気配はない。
 その頬を包んでやる。
「冷たい……」
 命を感じさせない冷たさ――。
「……のか…?俺を……、俺たちを置いていくのか……?」
 睦言のように囁やく。
 しかし、その口唇が応えることはない。
「千晶――――――っ!!」
 行き場のない慟哭。
 腕の中の恋人は二度と自分を見ない。
 甘い声音で自分を呼ぶこともない。
 ただ、その消えてしまった命の残骸を抱きしめるしかできなかった。

「千晶――――――っ!!」
 目の前の手術室から聞こえた慟哭に、雫の肩が大きく震えた。
 泣きたいのに、涙が出ない。
 叫びたいのに、声の出し方がわからない。
 愛している男たちの元に行きたいのに、立ちあがり方がわからない。
 ただ、深い谷底のような傷を刻む瞳で、目の前の何かを見つめることしかできない――。
 そして潤もまた、泣くことすら忘れてしまったような雫をただ抱きしめることしかできなかった――。


「樹!早く、食べないと学校に遅れるわよ」
「は〜い」
「お父さんは?今日、遅いの?」
「いや。今日は研究所に詰めるから、帰らない」
「わかった」
 あの日から、まだ5日しか経っていない。
 あの時、そのまま時が止まると感じた。
 それでも日常は続いているのだ。
 信じることができず、いつもの生活しかできなかった。
 そうでもしなければ、本当に千晶を失ってしまいそうで。
 頭のどこかが狂っていくのが、わかった――。

 ゴトリ―
 倒れた瓶からブランデーが零れだす。
 それを戻す力はなかった。
 ビールの缶とブランデーやウィスキーの空瓶が無数に散らばっている。
 閉めきった部屋は暗く、昼なのか夜なのか、あれからどの位経ったのか、一切わからない。
 別にわかる必要もない。
 生(き)のままのアルコールを流し込んでも、酔えない。
「千晶……」
 どこかが壊れた――。
 それがどこなのかはわからないが、致命的な破壊なのは紛れもないことだった。
 目を閉じれば、千晶の自分を呼ぶ声。
 千晶が自分にだけ見せる淫蕩な笑み。
 自分だけに見せる無防備な寝顔――。
 千晶の全てが、走馬灯のようにまわり、圭吾を闇に引きずり込む。

 雫の鈍い足取りは完全に止まってしまった。
 目の前には、いつもの倉庫。
 でも、足が動かない。
 制服姿のまま道路に立ち尽くす雫を、通行人が怪訝そうに見ていくが、雫の視界には入ってこない。
「雫さん」
 びくりと背が震えた。
 振り向くと、やはり制服姿の潤がいた。
「……進めない……」
 迷子の子供のように途方にくれた雫の様子に、潤が顔を曇らす。
「行きたいのに」
「はい」
「……手をつないでくれる?」
 恐る恐る右手を差し出す。
 逃げ出さないように、一緒に行ってくれる?――。
 そう呟いた。
 潤がその手を優しく掴み、少しずつ歩き出した。

「雫さん……」
 まるで通夜のように沈み込んだメンバーたち。
 俊樹がゆっくりと立ち上がる。
 その目元は赤く、恐らくまともに睡眠を取っていないだろう。
 と、突然、俊樹が深々と頭を下げた。
「すみませんでした」
「?…何故、あなたが謝るの?」
「俺は、千晶さんを護る立場にありました。でも――」
 そこで、ぐっと喉を詰まらせる。
「……誰のせいでも、誰の責任でもないわ……」
 必死に嗚咽を堪える俊樹を、優しく抱きしめる。
「――っ」
 我慢しきれず、声を出して泣き始める俊樹の背を、優しく叩いてやる。
 そして、その後ろでやはり泣いている孝太郎を招き寄せ、その頭を撫でる。
「あの……」
 後ろからの声に、首だけ回して後ろを見ると取り巻きの――特に千晶が目的だった少女の1人がいた。
「……これを高瀬さんと一緒に埋めて欲しいの……」
 泣きはらした瞳で、一途に訴える。
 その手には、繻子(しゅす)のリボンだった。
 ふと、それがトレードマークになっていた少女を思い出した。
 俊樹と孝太郎を優しく押しやり、振り返ると向き直った。
「これを、していた子。わかる?」
「……千晶が好きで、いつもいた子、ですね?」
「そう…。一昨日の夜、高瀬さんのところに行くんだって、自分で手首を切って、それで……」
「っ!馬鹿なことをっ」
 雫の、吐き捨てるような言い方に少女は唖然とした。
「馬鹿なことって……どういうことっ!?」
「馬鹿なことでしょう?」
「あの子は、あずさは、本当に高瀬さんが好きだった。あんたよりも、ずっと前から高瀬さんを見ていたんだっ!それなのにっ」
「なら、自ら命を絶って、それで千晶のところに行けると思う?」
 穏やかに問いかける。
「だって…そんな……」
「……そんな簡単なことで千晶のところへ行けるなら、とっくに私が…、私たちがそうしてるわ……」
「簡単、なこと?」
「簡単でしょう?マンションから飛び降りるか、ここを切ればいいことでしょう?」
 人差し指で自分の首筋を切る仕種をする雫の瞳に、どこか常軌を逸した光を見つけ、絶句した。
 そこには、到底自分たちには耐えられないような、深遠とした悲しみがあった――。

「――千晶の遺体は、大阪に住む家族の方が引き取られてしまったの。でも、入れてもらうように頼んで見るわ」
 壊れ物のようにリボンを受け取る。
「……大阪、ですか?なんで、そんな遠くに?」
 俊樹が掠れた声で問う。
「…うん。私も、今回知ったんだけどね。千晶は、関西の方にいる実力者の庶子で、認知はされていたらしいの。だから、葬儀は全て、あちらで行うんですって……」
「……千晶、さん。ほんとに、死んじゃったん、ですね?」
 しゃくりあげながら孝太郎が言う。
「そうね……」
 頭の片隅では理解している。
 だけど、それを認めることができない――。
「圭吾は?」
 思い出したように雫が問うと、俊樹も孝太郎も首を振る。
「来ていません」
「そう……」
 一瞬、考え込むと踵を返す。
「雫さん?」
「圭吾のところに行ってくる――」
「雫さん!」
 孝太郎の必死の声に振り向いた。
「……阿修羅はどうなるんですか?」
「……わからないわ……。どうしたい?」
「……無くなるのは、ヤです。でも、千晶さんが……」
「……みんなで、決めよう?ね?」
 再び涙を滲ませる孝太郎に、子供に諭すように言う。
 孝太郎は声も無く、頷いた。

「お送りします、雫さん」
「……佐伯くんは、何故ここまでしてくれるの?」
「ここまで?」
「ずっと、私を見ていてくれたでしょう?」
「……気づいてましたか…」
「……そんなに、危ない?私……」
「ええ」
「……そう。自分ではわからないわ……」
「あなたの傍にいたいんです。でも、あなたが今必要としているのは、僕じゃない――」
「……」
「あなたが必要なのは、圭吾さんだ」
 断言する潤に、肯定も否定もできなかった。

 ピンポーン、ピンポーン……。
 先ほどから鳴りつづける音が何なのか、理解できない。
 ふわふわとした音が頭に木霊する。
 指1本動かない。
 もう、動かす気もないのだから、いいか……。
 一度、浮上しかけた意識が再び沈んだ――。

「……ご…。け……ご……」
 自分を呼びつづける声に、仕方なしに意識が浮上する。
 うっすらと瞳を開けると、すぐに視界がホワイトアウトし、もう一度瞳を閉じた。
「圭吾」
 先ほどよりもはっきりした声に呼ばれ、再び瞳を開ける。
 多少まぶしさは感じるが、耐えられないほどではなかった。
「圭吾……」
 ほっとした声に横を向くと、雫がいた。
「お、れは…?」
 掠れた声が問う。
「……もう少しで、心臓が止まるところだったの。強いお酒をあんな無茶な飲み方するから…」
 いつまで経っても返答のない圭吾に、雫は嫌な予感がした。
 潤のお目付け役の桂場が、針金を使い鍵を開けるとムッとしたアルコール臭が鼻についた。
 足元には、ごろごろと酒瓶とビールの空缶が散らばり、その中に圭吾がいた。
 その頬に触れ、異常な冷たさを感じた雫が、潤に救急車を呼ぶように頼んだ。
 すでに、その段階で脈拍結滞、呼吸もほとんど感じることができなかった。
 急性アルコール中毒なのはすぐにわかった。
 潤の指示で、圭吾は佐伯総合病院に収容された。

「もう少しで死ぬところだったの」
「…そのまま、ほっとけばよかったんだ……」
「……千晶が大切にしていた阿修羅を置いていくの?」
「……」
「……圭吾まで、私を置いていくの?」
 泣き出しそうな声。
 それでも、圭吾を見つめる瞳は乾いたままだった。
「……雫?」
「私はここにいるの……。それを、置いていくの?」
 ゆっくりと、雫の瞳を見つめた――。

 置いてはいけなかった――。
 でも、一緒に逝ってくれとも言えなかった。
 千晶と一緒に護ると誓った雫を死なせるワケにはいかなくて……。

「雫……」
「うん……」
「一緒に、暮らそう……」
「うん……。千晶のこと、いっぱい話そう……」
「そうだな……。いつか、できれば……」

 今はまだ、記憶が生々しい過ぎる。
 いつか、話すことができるだろうか。
 この、深い心の傷を抱えたままで――。

エピローグ
epilogue
 ハッと意識が覚醒した。
 すぐに波音が、その耳に飛び込んでくる。
 無意識に傍らをまさぐって、そこに恋人のぬくもりがないことに気づいた。
 シーツは冷たく、だいぶ前にベッドから出たようだった。
 夢の中で、千晶が笑っていたような気がする。
 この波音が、過去を引きずり出す。
 傍らに雫がいないことに、例えようのない不安を感じて、ベッドを降りた。
 シャツを羽織ろうとしてないことに気づく。
 探すのも面倒で、ジーンズを穿いて、寝室を出た。
 夜はまだ明けきらず、廊下を挟んで向かいの、それぞれ2つの部屋にいる一哉と樹、龍一と亘は、まだ眠っているようだ。

 階下へ降り、リビングなどを覗くが雫の姿がない。
「海、か?」
 呟いた直後。
「すかしてんじゃねぇよっ!このアマっ!!」
 という怒号が遠くに聞こえた。
 テラスに出てみると、すぐ前の海岸で雫が5人の男に囲まれていた。
「…ったく。なんて格好を……」
 雫は、圭吾のシャツを一枚羽織っているだけなのだ。
 ゆっくりとテラスから海岸へと向かった。

「どうした?雫」
 穏やかに訊くと、一斉に男たちが振り向いた。
 まさか、男が出てくるとは思わなかったらしく、一様に動揺の表情が窺える。
「ここは私有地だ。出て行け」
 ゆっくりと言い含めるように言うと、その声音に含まれる怒りを察して、男たちは舌打しながら、離れていく。

「お見事……」
 雫が、抑揚なく言う。
 どうやら朝から面倒なことになり、不機嫌のようだ。
「そんな格好で出るからだ」
 濡れて体のラインが露わになっている。
「それでは、男に襲えと言っているようなものだぞ」
「……でも、圭吾は襲わないわ」
 一瞬、逃げようとした圭吾の瞳を強引に自分の方へ戻す。
「なんで?私が欲しくないの?」
「……好きな女が欲しくないわけないだろう…」
「なら、何故、抱かないの?」
 あれから、5年。
 必要不可欠で、奔放なものではないがお互いを信頼した愛情を持っているはずだ。
 そんな形の愛もあると思う――。
 それでも、圭吾は雫に触れない。
 優しくキスをするだけ。
「……千晶以外は抱きたくないの?」
 少し寂しそうに笑う。
「そういうワケじゃない」
「圭吾…・・」
「……まだ、お前が泣いていない……」
「え?」
「5年前のあの日から――千晶を失った時から、泣いていないだろう?」

 優しい波音が耳をくすぐる。
 その合間に呼ぶ声が聞こえた気がした――。

「……ああ、そうか……」
 5年前のあの日から、何かしなければならないことをしていない焦りがあった。
 それが思い出せなくて、焦りだけがあった。
 今、やっとわかった。

「私は、泣きたかったんだ――」
 柔らかく笑む雫の頬を、一筋の涙が伝う。
 圭吾が優しく抱きしめる……。

 水平線の向こうから、淡い光が滲み始めた――。

一緒に逝きたいと願った。
でも、置いていけないものがあって――
やがて、それは増えてゆき、生きることを望むようになった。
そして今。
逝かなくてよかったと思う。

――それでも――

決して癒えることのない『高瀬 千晶』という喪失の痛み――
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