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海に還る日
誓い
pledge
 雫が阿修羅に来てから、2週間になる。
 名目上、雫の待遇は副長ということになった。
 公介が引退すると千晶に申し出て、それを千晶が了承したためだ。
 千晶が総長になる際に、マスコットになるために女たちが起こす諍いに嫌気がさし、マスコットは置かないと宣言した事を考慮しての位置付けだった。
 もちろん、誰も副長の働きを雫に期待していない。
 副長の仕事は、今まで通り総長補佐の圭吾が行う。
 あくまでも、雫は『華』なのだ。
 千晶が雫に用意した特服は、緋色。
 鮮やかな緋(あか)一色のもの。
 左袖に『散華』と銀色に縫い取られている。
 千晶の傍で、ひっそりと華やかさを添える『華』。
 決して、自分たちのところまで降りてくることのない高嶺の華。

 とまどいながらも、阿修羅の中に雫を受け入れる空気が流れ始める。
 その理由の一つに、雫の持つ穏やかさがある。
 副長になったからといって、それを振りかざすことは一切しない。
 昔、千晶の女を気取っていた少女のように、高慢な態度を取ることもなかった。
 むしろ、そういった事に興味がないようだった。
 千晶も特に、雫にボディーガードをつけさせるなど、特別扱いすることもなかった。
 彼女は、ただ穏やかに、千晶から一歩引いたところで、静観しているだけだった。
 喧嘩の時も集会の時も、ただそこにいるだけだった。
 つまり、いてもいなくても大差ない、鑑賞するための存在――。

(たぶん、一番、雫を受け入れていないのは俺だろうな……)
 すでに一部のメンバーでは、その美貌に熱を上げ、率先して護衛役を担うことを願い出ている。
 不思議なことに取り巻き気取りの少女たちも、雫を認めている。
 そう――。雫はマスコットとして、その容姿と人間性において、申し分ない人間だった。
 それでも、圭吾は受け入れられない。
 時折、千晶が雫に話し掛け、雫がそれに応える。
 そして、その後に見せる千晶の笑顔――。
 穏やかで柔らかい笑み。
 自分では、それをさせることができない。
(俺は、こうやって千晶の傍で闘うだけ……)

「ぐげっ」
 背後から男が殴りかかるのを避けながら、その勢いを利用して鳩尾を膝で蹴り上げる。
 濁った呻き声で男が沈む。
 周りを見渡せば、ほとんど敵方で立っているものはいないようだ。
(無事か……)
 千晶の姿を認め安堵する。
 その時、ふと視線を感じた。
「な……」
 一瞬、時が止まった。
 見ていた。雫がまっすぐと自分を。
 喧嘩の場となっている場所から少し離れた安全圏から。
 千晶ではなく、自分を――。
 穏やかに静謐に。
 そして、その口唇が動く。
『ウ・シ・ロ』
 理解する前に体が反応した。
 咄嗟に体を捻ると、振り下ろされた鉄パイプが肩を掠め、アスファルトの地面に叩きつけられる。
 その衝撃で鉄パイプを取り落とした相手を、殴り倒す。
 口唇の動きなど見えるはずのない距離にいる雫の、それでもその動きがわかった。

「圭吾」
「ああ……。怪我はないか?千晶」
「あるわけないだろ」
 馬鹿なこと訊くなと言いたげな口調。
「俊樹、あとは任せるぞ」
「はい!」

「やっぱり、阿修羅は強いよね〜〜」
「ほんと。高瀬さんってかっこいい」
「一度でいいから、抱いてほしいよねぇ」
「そうそう。高瀬さんか東條さんに抱かれたら、それだけでハクはつくもんね」
 集会を遠巻きに見ていた少女たちは、そのまま乱闘のギャラリーになった。
 月一の集会に、敵対するグループ―『MAD SKILL』がなだれこんで来て、そのまま乱闘となったのだ。
 阿修羅の圧倒的な強さは少女たちを興奮させる。
「私、阿修羅のマスコットになれるんだったら、何でもするっ!」
「だよね〜〜。だって、あの2人に大事にされるんだよぉ」
「あ……」
 騒ぐ少女たちの視界の隅に、緋色が映った。
 しまったという思いが少女たちの瞳に浮かぶが、雫にそれを聞き咎める気はまったくないようだった。
 こちらに向かってくる千晶と圭吾の方へと歩いていく。

「怪我はありませんか?」
「ない」
 千晶は、穏やかに問う雫にそっけなく応えると、そのまま圭吾のインプレッサに乗り込んだ。
「千晶?」
 驚いて圭吾がナビを覗き込むが、千晶はムッツリと目を閉じて動こうとしない。
 雫と顔を見合わせた。
 千晶が不機嫌な理由がわからないのだ。
「早く出せよ、圭吾」
 子供の我儘のような口調で、千晶が言う。
 と、何かを悟った雫がくすくすと笑い出した。
 圭吾はますますワケがわからず、困惑する。
「東條さん。この我儘な王子様のご機嫌を取ってください」
「雫!」
 拗ねた子供のように睨む千晶に、雫がますます笑みを深める。
 2人の間には、もうすでに圭吾がどうこうできない絆があるのを悟って、圭吾は諦めたように溜息をついた。
 雫もまた、千晶に魅入られた1人。
 そして、千晶が必要としている人間だということに。

「……さっきは助かった。ありがとう」
「いいえ。あまり、喧嘩の最中は余所見をしないほうがいいと思いますよ」
「気をつけるよ」
「圭吾!」
 ますます不機嫌な千晶に肩を竦め、運転席へと回る。
 目礼する雫に頷く。
 この時、初めて3人の均衡が保たれた。

「何がそんなに気に入らないんだ?」
 水割りを作ってやりながら、いつかとは逆に、不機嫌の理由を尋ねる。
 千晶の我儘で、圭吾は自分の家に千晶を招いた。
 窓際に立ち、7階立ての最上階から海の方を見ている千晶にグラスを渡してやる。
 2年前に両親が海外に転勤してから、学校のあった圭吾はそのままこのマンションに一人暮らししている。
「千晶?」
「……さっき、見つめあってただろ?」
「?」
「雫と……」
 一瞬でわかった。千晶が不機嫌な理由が――。
 同時に胸に痛みが走った。
 千晶は、雫が自分を見ていたことが気に入らないのだ。
「あんな喧嘩の最中にっ」
「悪かった」
「そんなに雫が気になるのか?」
 一転して、少し不安そうに訊かれた。
「それは、そうだろう。彼女はお前に惚れてるし」
「え?」
 意外そうに千晶が見上げる。
「雫が?俺を?」
「気づいていないのか?」
 今度は、圭吾が意外そうに訊いた。
「それは違う、圭吾。雫は俺と契約したんだ」
「契約?」
「あいつ、弟がいるだろう?」
「ああ」
「それを護るために、力が欲しいって。だから、契約したんだ。何かの時は、俺たちが力を貸す。その代償として、雫は阿修羅の象徴になる。もちろん、狙われるというデメリットも納得の上で」
「でも、お前が欲しい人間なんだろう?」
 嫉妬がほんの少し口調に混ざる。
「圭吾、お前……。もしかして、妬いてるのか?」
 さっきまでのしおらしい態度など忘れたかのように、楽しげな、ともすれば嬉しそうな声で圭吾に詰め寄る。
「当たり前だろう。俺は、お前に惚れてるんだからな、千晶」
 ことさら無愛想に告げる。
「圭吾…」
 虚を突かれたように絶句する。
 ――決して言うつもりのなかった言葉。
    雫が現れなければ、言えなかった言葉――
「圭吾」
「うわっ」
 突然抱きつかれた圭吾の手からグラスがゴトリと落ち、中身を撒き散らす。
「バカ、千晶」
 拾おうとした圭吾を強引に引き寄せ、その口唇を塞いだ。
 圭吾はすぐに諦め、体勢を整えると千晶の口腔内を貪る。
「やっと、言ってくれたな…」
 濡れた口唇そのままで、ふわりと微笑む。
 雫に向けたそれよりも、柔らかく幸せそうな微笑み。
「お前は、俺と雫のものだからな」
「……お前はわかるが、何故、雫が出てくるんだ?」
 困惑に眉根が寄る。
「だって、雫は俺たちのものだし、俺は、雫と――お前のものだろ?」
「……まあ、いいだろう」
 よくわからない理論だが、そこは惚れた弱み。
 どんなに理不尽でも、わけのわからないことでも、それでも許してしまう存在。
 それほどまでに惚れていることを、今さらながら自覚した。

「圭吾、欲しい……」
 熱い吐息と共に、囁かれる。
 押しつけられたモノはすでに昂ぶっている。
 太腿で擦りあげてやれば、しなやかな肢体が仰け反る。
「け…ご、……してる……」
「え?」
 聞き取れず、聞き返す。
「あいしてるって言ったんだ、ばか」
 信じられず、思わず体を離した。
「なんだよ」
 拗ねたように千晶が口唇を尖らす。その様が愛しい。
「千晶……」
「愛してる。雫と――そして、お前を」
 まっすぐと見つめてくる瞳。
 惹かれずにはいられない存在。
「……2人ともなのか?」
 不満そうな言葉とは裏腹に、嬉しそうな声。笑み。
「だって、しょうがねえだろ?2人とも欲しいんだから」
 高慢な、許されて当然という口調。
 完敗だった――。
「俺から、離れるなよ。圭吾」
「ああ」
「離れたら、俺が殺すからな」
「かまわない。その時は、俺を殺せ」
 子供のような独占欲。それがたまらなく嬉しい。
「俺を放すなよ、千晶」
 言い返そうとする千晶の言葉は、圭吾の喉奥に消えた。
「千晶――愛してる」


「ん……」
 小さな呻きに、起き上がろうとしていた体を止めた。
 しかし、腕の中の恋人は、そのまま小さく吐息をつくと、規則正しい寝息に戻った。
 ほっと安堵し、そろりとベッドを抜け出し寝室をあとにした。
 そのまま、脱ぎ散らかしたジーンズを持って、バスルームに入る。
 頭から冷たい水を浴び、思考をクリアにしていく。
 ふと、いつの間にか口元に笑みが浮かんでいるのに気づいた。
「割と、淡白は方だと思っていたんだがな…」
 1人、苦笑混じりに呟いてみた。
何度、あの体を貪ったか。最後の方は、記憶も曖昧になっている。
「まいったな…」
 思い出しただけでも、体が熱くなるのを感じて、再び苦笑する。
 物思いを振り切るように、汗を流す。

「ふう……」
 冷蔵庫から缶ビールを出し、一気にあおる。
 窓の向こうは、東雲色に染まっている。
 夜明け前の淡い光が眼にしみて、ふと視線を下に向けて、気づいた。
「!」
 アスファルトの細い公道。
 白茶けた黒の上に、鮮やかな緋(あか)
 圭吾は、それでも隣室で微睡む千晶を起こさぬように気配を殺しながら、ダイニングの椅子にかけてあった 麻のジャケットを素肌の上に羽織り、車のキーを取り上げると家を出た。

「東條さん」
 雫は、エントランスから出てくる圭吾を見とめ、柔らかく微笑む。
 孝太郎などは、『天使みたい』や『護ってやりたくなる』と評している笑み。
 しかし、圭吾は穏やかで、そして隙のない硬質な微笑みだと思う。
 自分の中に他人を入れることを拒んでいるような――そんな、印象を受ける。
「どうしたんだ?こんな時間まで…。家に戻らなくていいのか?」
 母親を亡くしているという雫は、家の家事一切を担っていると聞いた。
 戻らなければ、朝食の準備の前に、睡眠を取れない。
「……事後報告をしようと思ったのですが、お邪魔をするのも無粋だと思いまして…。迷っていたら、この時間になってしまいました」
 馬鹿ですね、とでも言いたげに苦笑する。
「報告って……。そんなのは、他の連中に任せればいいだろう」
「でも佐賀野さんが、私に任せるとおっしゃったので……」
「俊樹が?」
「ええ。自分たちが邪魔をすると、千晶が怒るから、と」
「あいつら……」
 わずかに、頬が熱くなるのを感じた。
 と、雫がくすりと笑った。
「でも、正解かもしれませんね。彼らにこれは目の毒です」
 ほっそりとした、まだ幼さが残る白い指が、圭吾の首筋から胸を辿る。
 そこには、快楽に夢中になった千晶がつけたキスマークが無数に散らばっていた。
 圭吾がばつ悪そうに視線を逸らすのを、楽しそうに見る。
「……とりあえず、家まで送る」
「お願いします」
 照れ隠しに軽く咳払いする圭吾に、くすくすと笑いながら雫がついていく。

「……東條さんは、たしか17歳ですよね」
 走り出してしばらくしてから、雫がさらりと訊いてきた。
「圭吾でいい。…今さら、免許のことを訊くなよ」
「……愚問でした」
 シフトを変える手の運びも、ステアリングを操作する仕種も慣れている。
 それだけで、無免許運転をしている時間が、お遊び程度ではないことがわかる。
「今度、運転教えてください」
「……女はナビにいればいいさ」
「封建的ですね」
 いささか気分を害したような口調で、雫が睨む。
「悪かった。言い方を変える。いい女はナビにいるのが似合う」
 口唇の端に笑みを浮かべ、流し見る。
「なっ…☆」
 一瞬、面をくらって雫が絶句する。
 次の瞬間、声をあげて笑い出した。
(そんな顔もできるのか――)
 あまりにも歳相応な、邪気のない笑顔に一瞬、胸が高鳴った。
「あはは……。圭吾は、ホストになれますよ」
 そう――。雫はまだ13なのだ。
 屈託のない笑顔が似合う年頃で、いつも見せる大人びた、すべてを包み込みそうな笑みを浮かべるような歳ではないはずだ――。
(何が、あったのだろうか……)
 阿修羅を居場所にしている人間は、少なからず歪んだ傷を持っている。
 千晶、然り――圭吾、然り。
(こいつには、どんな傷があるのだろう……。)
 何気なく考え、はたと気づいた。
 他人にこんな関心を抱いたのは千晶以来だ――。
 胸中でこっそりと苦笑し、ちらっとまだあどけなさの残る、整った横顔を盗み見る。
 まだ笑いの余韻が残っているらしく、くすくすと笑い続ける。
 取り澄ましていれば整った人形のようで、千晶とはまた違った秀麗な顔立ちをしている。
「なんですか?」
 視線に気づいた雫が不思議そうに訊く。
「いや――。母親はかなり美人だっただろうなと思ったんだ」
 瞬時にして、雫の顔が強張った。
「雫?」
 驚いて問うが、次の瞬間にはいつものように、硬質な笑みを浮かべた。
「みたいですね。私はうろ覚えですが、父曰く、そっくりだそうですよ」
 他人を寄せ付けない笑み。
「……つまり、自分は美人と自覚してるワケだ」
 とりあえず、雫の牽制に気づかぬ振りをして、話題を変える。
「それじゃ、私がナルシストみたいじゃないですか?」
 圭吾は、雫の口調にわずかな安堵が込められているを感じて、雫の触れられたくないものに触れてしまったことを後悔する。
「千晶なんて、もっとすごいぞ。初めて会ったときな、男も女も、俺に惚れないやつはいないって断言していた――」
「すごい自信☆」
 雫が呆れたように笑う。
「だろう?でも、それに捕まってしまった俺も俺だがな」
 わざとらしく溜息をつく。
「そうですね。捕まってしまった私たちが、馬鹿なんでしょうね」
 雫もまた、仕方なさそうに溜息をつく。
「惚れているのか?千晶に」
「……今さら、あなたがそれを訊くんですか?……好きですよ。千晶と、そして、圭吾。あなたが」
 樹の次にね、と声には出さず、自分に言い聞かせる。
 そうでもしなければ、溺れそうで。千晶と圭吾以外見えなくなりそうで――。
「……千晶と同じ事を言う……。千晶も、俺とお前が欲しいと言っていた」
 雫がくすりと笑みを零す。
「私も千晶も、欲張りなんです」
「千晶は、お前が傍にいるのは、契約したからだと言っていたぞ。弟を護るために」
「始めはそうでしたが、今は好きだから傍にいるんですよ。ただ、照れ屋なんで、本当のことを言ってないんです☆」
 おどけて肩を竦める。
「照れ屋ね……」
「第一、そんな事言ったら、あの自惚れ屋がどんなにつけあがるかわかりませんよ」
「違いない」
「あ、ここでいいです」
 自宅前の道に入る前に車を止めた。
 ドアを開けて降りたところで、するりと特服を脱ぐと、圭吾に差し出した。
「預かっていただけますか?」
「特服をか?」
 信じられないという思いが圭吾を瞠目させる。
 特服は、簡単に人に預けるものじゃない――。
 圭吾はそう思っていたからだ。
「……勘違いしないでください。どうでもいいものだから預けるんじゃなくて、あなたを信頼しているから、自分の看板(特攻服)を預けるんです」
 強い瞳が圭吾を射抜く。
「すまない」
 誤解した事を、素直に謝罪する。
「それじゃ。ありがとうございました」
 一礼して自宅に向かう背を見つめる。
 明け方の住宅街はしんとしている。
 圭吾は窓を開け、雫が家に入る音を確認しようと耳を澄ます。
 しかし――
「なにやってたんだっ――!!」
 耳に飛び込んできたのは、激昂した男の声だった。
 ほとんど無意識の動作でエンジンを切ると、車を出て声の方へ向かう。
「っ!雫っ!!」
 視界に飛びこんできたのは、家の玄関先で中年の男に喉を締め上げられている雫の姿だった。
「何をしているっ!?」
 駆け寄ると同時に、男の腕から雫の体を奪う。
 雫は、圭吾の腕の中にぐったり寄りかかりむせかえりながら、苦しそうに呼吸を繰返す。
「何だ!?貴様はっ!?」
 まともに顔を合わせ、気づいた――。
 男の眼の焦点があっていないことに。
「……そうか…そうだったのかっ!お前は、私の目を盗んで、他の男と逢引してたんだなっ!?愛莉っ!!」
「アイリ?」
 圭吾の声は男に届いていないようだ。
「ちが…お、と……さん。この人、は、かんけ、ない」
(父親だと!?)
「許さんぞぉ……。私以外の男に抱かれるなど、許さんぞっ!愛莉っ!」
 雫の髪を鷲掴みにしようと伸びてきた腕を片腕で掴むと、そのまま後ろに流し、よろめいた体の後頭部に手刀を叩きこむ。
 男の体が崩れ落ちる。
「す、みません」
 ようやく呼吸の整いつつある雫が体を起こした。
「雫。これは一体――」
「すみません。説明しますので、父を運ぶのを手伝っていただけませんか?」
「父親、なのか?」
「はい――」
 雫が眼を細める。
 泣くと思ったが、しかし雫は悲しげに微笑んだだけだった。

「ご迷惑をおかけしました」
 サイフォンから淹れたてのコーヒーをカップに注ぐ。
 とりあえず、父親を寝室まで運び寝かすと、リビングに通された。
 ふとサイドボードを見ると、写真立てがあった。
 そこに写っていたのは、雫とよく似た―雫よりも子供っぽい女性だった。
「母です。似ているでしょう?」
「ああ。すぐに親子だとわかる」
「……母は、樹――弟の命と引き換えに亡くなりました。父は、本当に母を愛していた――」
「では、アイリというのは?」
「母の名前です。父は母を失って以来、情緒不安定で睡眠薬を常用しているんです。それで、明け方。薬が切れて起きるころに、ああやって時々錯乱状態に……。でも、ここまで騒ぐことは少ないんです。朝起きて、私がいるのを確認すると、また少し微睡んで、次に起きた時は普通に戻る。ただ、今朝は――」
「姿が見えなくて逆上したワケか」
「はい。恐らく……」
「大変だな……」
「……いいえ。父親ですから――」
 雫が微笑みを浮かべる。
 胸が締め付けられそうな、哀しい笑みだった。
「雫」
 抱きしめずにはいられなかった――。
 この哀しい少女を、包まずにはいられなかった。
「雫」
 言葉が見つからない。
 ただ、腕の中の髪を撫でてやるしかなかった。
「……圭吾。もう戻らないと、千晶が拗ねますよ」
 雫の腕が軽く圭吾を押し返す。
「雫……」
「大丈夫です」
 もう一度、微笑む。
「……お前は、俺と千晶にとって、必要な人間なんだからな」
 あまりにも、儚げで――今にも消えてしまいそうで……。
 そう言わずにはいられなかった。
「ありがとうございます」

「ちょっと、ちょっと待って、あなた」
 ドアを開け、インプレッサに乗り込もうとした時、そう呼び止められた。
 見やると、頭に盛大な数のカーラーを巻き、ネグリジェ姿でサンダルを引きずりながら、おばさんが駆け寄ってくるところだった。
「なんでしょうか?」
 あの騒ぎを聞きつけて、根掘り葉掘り聞こうとしているのかと警戒する。
「ね、あんた。雫ちゃんの彼氏かい?」
「……ええ、まあ…」
 圭吾の曖昧な返答を気にするでもなく、しゃべり始めた。
「ねえ、雫ちゃんを助けてあげてよぉ。私は、もう不憫で不憫でしょうがないんだよ。確かに奥さんは美人でいい人だったけど。いくら雫ちゃんがそっくりだと言っても、何もあんなことしなくたってさぁ……」
「あんな事?」
「いやね。去年の奥さんの命日なんだけど、毎年命日になると樹ちゃんへの暴力が酷くて。だからその日は樹ちゃんを知り合いに預けたらしいんだけど、それがいけなかったんだねぇ」
「……なにが、あったんですか?」
 嫌な予感がした。
 喉が干上がって、掠れた声しか出なかった。
「ガラスの割れる音と雫ちゃんの悲鳴が聞こえてね。私たちもさすがにまずいと思ってね。旦那と一緒に飛び込んだんだけど。あれは悪夢だったね」
「何があったんですかっ!?」
 声が悲鳴のように上擦った。
「ご主人、雫ちゃんを奥さんの身代わりにしちゃったんだよ」
 あとは、何も聞こえなかった―――。

 ガタンッ――
 玄関での物音に、うとうとしかけていた意識が戻った。
 千晶は飛び起きると、玄関へ向かった。
 明け方。目を覚ましたら、隣に恋人の姿がなかった。
 これはペナルティだ。帰ってきたら、思いっきり責めてやると息巻きながら、うとうととしていたのだ。
「どこに行って……」
 言葉は途切れた。
 目の前の恋人が、あまりにも憔悴していたからだ。
「圭吾!」
 ぐらりと揺らいだ躯を支えるために、駆け寄った。
「あ、っつ」
 思わぬ力で腕を掴まれ、痛みが走る。
「……のか?」
「え?」
 痛みに顔を顰めながら、問い返す。
「お前は知っていたのか!?千晶」
「圭吾……。なんて顔してんだよ」
 今にも泣き出しそうな表情(かお)
 愛しげに頬を包んでやる。
「お前は知っていたのか?雫が抱えているものを……」
「……何かあったのか?」
「雫が父親に殺されかけた」
「……ちょっとしたことで、雫の存在を知って欲しいと思った。だから色々調べた時に知った――」
「……俺は、あいつはただの育ちのいい優等生だと思っていた。冷めた目で俺たちを見ている、家族に愛され、大事にされている甘ちゃんだと思っていた。でも、違ったんだ」
「圭吾……。お前が自分を責めることじゃない」
「俺は知ろうともしなかったんだ」
「圭吾!」
 パチと、軽く頬を張られる。
「千晶……」
「冷静になれよ、圭吾。お前らしくない」
 きつく目を閉じ、深く呼吸する。
 煮詰まっていた脳に、涼しさが戻ってくるような錯覚を起こす。
「圭吾。あれは、俺とお前のものだろう?」
「……そうだ」
 雫が、そう言っていた……。2人を愛していると――。
「なら、護ればいい。あいつが俺たちの腕の中から、逃げ出せなくなるように」
「千晶……」
「例え、実の父親だろうと、あいつには触れさせない」

 それは1人の女を護るための、2人の男の誓い――
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