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天使なんていない
3.離れない絆
『亘……』
「龍一!?」
ハッと意識が覚醒した。
しかし、そこは1人だけのベッド。
隣りの部屋から下卑た笑い声が聞こえてくる。
幻聴だとはわかってるけど、耳の奥に残る龍一の声が汚されそうで、必死に耳を塞ぐ。
頭では納得したつもりでも、心がついてこない。
でも、その手を離すことしかできなかった。
だって、きっと龍一は普通の家で育って、たぶん自分には縁のない世界の住人なのだろう。
自分の世界に堕とすことはできない。
思わず身じろぐと、どろりと正則が放ったものが、奥から溢れてきて内股を濡らす。
「ぐっ!」
吐き気がこみ上げる。
そのまま寝室を出るとバスルームに直行する。
「ぐぅっ……ゲホッ」
胃の中身をあらかたぶちまける。
そのまま、視線を上げる。
「ひでー顔」
自嘲気味な笑いが起こる。
顔色は蝋人形のように青ざめ、殴られた頬は腫れている。
噛み締めた口唇は無残な傷跡を晒している。
銀色の髪。緋色の瞳。
自分がなぜこんな姿に生まれたかは知らない。
この容姿のせいで施設ではいじめられ、気味悪がられた。
でも、この容姿のおかげで拾われ、取りあえず生きてこれた。
「……会わなきゃよかったのかな?」
小さく呟く。
――会わなければ、諦めたまま、流されるままに生きられたのに……。
でも、気づいてしまった。流れから外れることを。
人を愛することが、どれだけ誇らしくて心地いいことか。
鏡の中の自分を見つめているのに、亘は自分が泣いていることに気づいていなかった。

「おい!?どうしたんだっ!?」
ドアが叩かれる音と共に、チンピラの焦りを帯びた声が聞こえる。
正則がいない間、亘に何かあれば自分が責任を取らなければならないと焦っているのだ。
ちらり、と時計を見ると、正則たちが出ていってから2時間半ほど経っていた。
もうすぐ、戻ってくる。
「おい!!返事しろ」
「うるさい!シャワーを浴びるだけだっ!」
ドアを蹴る音が聞こえた後、チンピラの気配がドアの前から消える。

「もう、いっか……」
亘の口唇に狂気じみた微笑みが浮かぶ。
その視線の先には、正則の剃刀の替刃。
「綺麗に、しなきゃ……」
その微笑みのままバスタブに入ると思いっきりシャワーを捻る。
冷たい水が疲れきった体を打つ。
傷ついた蕾に指を突きたてる。
塞がりかけた傷が開き、鮮血を零すが痛みは感じなかった。
乱暴な仕種で中のものを掻き出し、指に汚れが残らないまで掻き回す。
そして、シャワーの下にしばらく佇む。
決して、よかった人生とは言えない。
神様なんか信じていないけど、でも、最後に幸せをくれた。
たった3日。
でも、愛した男と想いながら逝けるのだから、悪くはなかったかもしれない。
そう考えながら、手を伸ばす。
「ごめんね、龍一。俺、お前の天使になれなかった……」
薄いそれは亘の手を滑り、ちりんという音を立てて、バスタブに落ちた。
かがむのも億劫なので、もう一度手を伸ばし、慎重にもう一枚指の間に挟む。
そのまま左手首を撫でると、紅い線がひかれた。
恐れた痛みは感じたかもしれないけど、亘には理解できなかった。
「なんだ。別に痛くないんだ」
もう少し強く撫でてみると、さっきよりも太い線が引かれ、鮮血がながれ始める。
「もっと……」
ベッドの中の睦言のように、甘く囁いてみる。
「龍一……」
右手の指が切れるのも構わず、刃で左手手首を撫で続けた。

だんだんと視界が暗くなり、膝が崩れ座り込んだ。
降りそそぐ冷水が、鮮血と混ざりながら排水溝に呑み込まれていく。
まるで、亘の命までを呑み込むように――。
意識を失う直前、ドアの向こうでの怒号と、その中にはっきりと龍一の声を聞いた気がした。
「りゅ…いち……」
愛してるという言葉は音にはならなかった。


「何だっ!?てめぇらっ」
安物のソファーにふんぞり返って酒を飲んでいたチンピラが3人。
立ち上がる暇は与えなかった。
潤が正面の、親衛隊の2人がそれぞれ左右のチンピラを抑える。
「亘!どこだ!?」
龍一はまっすぐ、寝室へと向かう。
立てつけの悪いドアを力任せに開ける。
―そこに、亘の姿はない。
代わりに龍一の目に飛び込んできたのは、陵辱の跡も甚だしいベッドだった。
「ちっ!」
周りの住人が、龍一が出た直後、チンピラとやくざみたいな男が入っていったと言っていたのを思い出す。
正則が来て、そして亘を――。
歯ぎしりをした龍一の耳にシャワーの流れる音が聞こえた。
「バスルームか」

「なっ!?」
心臓に鋭い爪を立てられたような驚愕。
ぐったりとバスタブにもたれかかる亘。
そして、流れ続ける鮮血。
「し、雫さん!!」
龍一の悲鳴に近い声に慌てて雫もバスルームを覗き込む。
「!」
息を呑む音が、やけに大きく聞こえた。
「ぼーっとしないの、龍ちゃん!」
我に返った雫が亘の体を抱きかかえる。
そして、そこにあったタオルで左手首をきつく抑える。
龍一も自分の羽織っていたジャケットで亘の体を包み込み、そのまま抱き上げる。

「潤!」
チンピラたちを縛り上げていた潤が振り返る。
そして、2人の様子に瞠目する。
「梶野先生のトコに連絡入れておいて!」
「わかりました!」
返事を背にしながら、亘を抱いている龍一を先導してビルを出る。

「圭吾!」
エスティマに寄りかかり煙草を口にしていた男が、すぐにリアシートのドアを引き開ける。
「梶野先生のところへ」
「わかった」

「亘!亘!」
軽く頬を叩くが反応はない。
ただ、浅い呼吸だけを繰返す。
冷たくなっていく体。
「どうしよう、どうしよう、雫さん」
泣きそうな目が見上げる。
「大丈夫」
濡れた銀色の髪を払ってやる。
まだ、幼さの残る顔。
「大丈夫」
もう一度、言い聞かせた。

車が着いた場所は、どことなく寂れた個人病院だった。
しかし、出てきた医師も看護婦も若く、その動きはきびきびとしている。
龍一から亘の体を受け取ると、そのまま救急処置室と書かれた部屋へと入っていく。
扉の前から動かない龍一を見つめる雫の肩に手が置かれた。
「圭吾……」
振り返り、恋人の名前を口にする。
「ごめん。お店、休ませた」
「いい。気にするな」
それきり、会話は途切れた。

扉が開かれ医師が姿を見せるまで、そう時が経ってないようで、でも一生続くかと思うほど長かった気もした。
「先生!」
龍一が噛み付くように医師に詰め寄る。
それを落ち着かせるように微笑む。
「大丈夫だ。傷自体は全部浅いし、発見が早かったから出血もさほどではない。輸血用の血液も1ビンあればいいほどだ。ただ、意識を失っているのは、どちらかというと精神的な疲れからだろう。ゆっくりと静養すれば問題ない」
一同の肩から力が抜けた。
ストレッチャーに乗せられた亘が病室へと向かう。
「どうする?龍ちゃん。付き添ってる?」
「雫さん……」
「付き添ってるなら、私1人で行ってくるよ?」
しばらく思案する。
「先生。亘はどれくらいで目が覚めますか?」
「ん?そうだな、今は薬が効いているから……1時間くらいかな」
「わかりました。――雫さん」
「うん。1時間もあれば、ケリがつく」
「行こう」
「圭吾。プリンスホテルまで」
「わかった」


「いらっしゃいませ」
ロータリーに回された車に一礼して頭を上げたベルボーイが、一瞬言葉につまった。
(何なんだ?今日は……)
今日は、やくざばかりを迎えている気がする。
なんでも、やくざの親分の誕生日会とかで、宴会が開かれている。
そして、目の前に降り立った少女は、間違いなく特攻服を羽織っていた。
後ろにいる少年もきつい目をしている。
それでも、さすがはプロ。
笑みを浮かべながら、2人を中へと招く。
それに目礼した2人は、何の躊躇いもなく大宴会場へと向かった。

「何だ?お」
お前らは、と続くはずだったが鼻づらを殴られ、言葉も無く座り込む。
襖を開けるとむっとした酒の匂いが鼻をつく。
2人はそのまま、真ん中を突き進む。
誰もが呆気に取られ、ぽかんと見送った。
そして、上座に座る老人の前に座った。
「初めてお目にかかります。『阿修羅』というチームの総長補佐を務めさせていただいています、漆原 雫と申します」
「ふむ」
鋭い眼光が雫と龍一にあてられるが、一向にひるむ様子はない。
「何用かな?」
2人に掴みかかろうとして腰を浮かせた男たちを老人の一言が制する。
「はい。実は、私の弟がそちらの藤堂 正則氏とサシでお話がしたい、と」
「小野寺 龍一と申します」
すかさず、少し後ろに控えた龍一が頭を下げる。
「何だ?てめえはっ?」
噛み付きそうな勢いで身をのりだしてくる男。
すぐに正則とわかる。
龍一はそちらへと向き直る。
「亘は俺がもらいます」
「は?」
ぽけっとした声が正則から漏れる。
一瞬、硬直した空気を破ったのは――
「わーはっはっはっは……」
豪快な老人の笑い声だった。
怒りで正則の顔が赤らむ。
「加賀瀬っ!この2人をぶちのめせっ!!」
しかし、弥勒は沈黙した。
「加賀瀬っ!」
ちらっと弥勒の視線が老人―誠之助を見やる。
「加賀瀬!」
「正則さん。私は御前の下についています。御前がいらっしゃる場合は、御前の言葉が優先されます」
「仮にも藤堂の名を名乗る人間が、サシでの話ができないのですか?」
たたみかけるように雫の落ち着いた声で言う。
「な、な、なんだとぉ〜」
怒りで拳を震わせながら、正則が雫に掴みかかる。
が、その手は龍一によって止められた。
「話があるのは、俺です」
「てんめぇ〜」
「やめんか!!」
誠之助の声が空気を震わせた。
正則が慌てて振り向く。
「し、しかし、じいさん。恥かかされたんだぜ」
「お前の器の小ささには、ほとほと呆れたぞ、正則」
「そ、そんな」
「いいか。今後、藤堂を名乗り、大きな顔をするな」
「なっ!お、親父、なんとか言ってくれよ……」
焦った正則が、助けを求め、視線を彷徨わせるが、誠之助の決定は絶対だった。
へたり込んだ正則を、誠之助が顎で『連れて行け』と命じる。
ずるずると引きずられるように部屋の外へと連れて行かれる。
その様子を龍一が見つめる。
(本当は一発殴ってやりたいが、な)
内心、そう思う。

「せっかくの宴に水を差してしまい、申し訳ありませんでした」
雫が指をついて、謝罪する。
「いや、かまわんよ。余興として申し分なかったわい」
「そうですか」
「雫、とか言ったな。どうだ、孫のどれかに嫁に来んか?」
「残念ながら……」
やんわりと言葉を濁す。
「ふむ。歳はいくつだ?」
「18です」
「ほう。後ろの坊は?」
「近々、17になります」
龍一が緊張した硬い声で応える。
今更ながら、自分たちがどこにいるのかを思い出したのだ。
周りにいるやくざが襲ってくれば、何としてでも雫だけは護らなければ。
改めて、心を引き締める。
「……どちらも、いい瞳をしているな」
「ありがとうございます」
淡々と雫が応える。
「今後、この藤堂 誠之助の名にかけて、手出しはさせん」
「心強いです」

「加賀瀬!」
「はい」
「2人を送れ」
「はい」
弥勒が立ち上がり、視線で雫たちを促す。
「それでは、失礼します。今回の件に関してのお詫びは、後日改めてさせていただきます」

弥勒の後ろについてホテルから出る。
そこには圭吾が2人を待っていた。
「ここまでで」
雫が言うと、弥勒は目礼して踵を返そうとする。
「何故、あなたほどの人があんなボンクラの世話役などに収まっているんですか?弥勒さん」
雫の言葉に、片眉を跳ね上げる。
龍一も驚いたように雫を見つめる。
「……芳さん、『アヴェ・マリア』を耿彦さんと月夜さんに譲るつもりのようですよ」
弥勒は、それで知っているのかというように頷く。
「芳が、あの坊やたちにか?」
「坊やなんて……。聞いたら怒りますよ」
ふん、と鼻を鳴らすと、今度こそは踵を返す。

「雫さん。知り合いだったのか?」
「まあね。……さ、病院に戻ろう」
「うん」
「龍ちゃん。人を護るには、もっと力が必要よ」
「……わかってる。実際、雫さんの協力がなければ、無理だった」
「……元気になったら、色々決めようね」
「はい」

――そう。まだまだ、力が足りない。
でも、亘は俺のものだ――
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