天使なんていない | |
1.路地裏 | |
「龍一(りゅういち)……」 懐かしい声が耳元で呼ぶ。 幼い頃から、護り慈しんできた天使。 沈みかけた意識が浮上する。 目覚めたくないのに……。 目覚めれば、天使がいないのに……。 それでも、その幻聴に誘われるように意識が現実を認識し始める。 冷たい――。 うっすらと目を開けると額を流れる水滴が目に入り、意識が覚醒する。 体が重い……。 (俺……。どうしたんだっけ…?) 龍一は纏まらない思考の糸を必死に手繰る。 ここ、4ヶ月近く。龍一は、学校に一切登校していない。 高校1年の3学期末から、突然、登校しなくなったのだ。 成績優秀で、単位も満たしていたので進級はし、新旧の担任が自宅へ日参して学校へ戻るように説得するが聞く耳を持たず、そのうち担任が来る放課後の時間帯に自宅にいることがなくなった。 自らも教師を勤める父親は、激怒し手を振り上げるまでしたが、それでも一向に龍一は戻ろうとしない。 成績優秀でスポーツ万能。学校にとって、進学率を上げるまたとない優等生の突然の登校拒否に右往左往する大人たちの中で母親のみ、その理由がわかる気がしていた。 恐らく龍一にとって学校に行く意味が無くなってしまったのだ。 龍一には常に大切にしている幼馴染みがいた。 漆原 樹(うるしばら いつき)。可愛くて、そして哀しい少年。 生まれたと同時に母親を失い、そのために父親に憎まれていた。 幼い頃、父親の暴力から逃げるために、2つ年上の姉と龍一の家に逃げこんできたことも、決して少なくない。 龍一は樹を護るために、実力よりも数ランク下の私立高校に入学したのだ。 ところが、当の樹は2月半ばに突然退学してしまった。 とうとう、父親の仕打ちに耐えかねて家を出たようだった。 それ以来、行方がわからなくなり、季節は寒かった日々からどんよりとした梅雨の時期に移り変わっていた。。 父親は、樹の失踪直後、憎むべき存在が無くなったことにより怒りの持って行き場がないらしく、半狂乱になって、龍一の家まで押しかけてきた。 樹の家の中で唯一の味方だった、姉―雫(しずく)もすぐに家を出て連絡がつかないのだ。 龍一は、その出来事に打ちのめされたのだ。 ずっと護ると誓った樹がその指の間をすり抜け、そして失った。 いつでも自分を頼りにしていた無垢で哀しい天使は、いざという時、自分以外の人間を頼りにした。 樹を護ってと言っていた雫も、自分以外の人間に樹を託した。 自尊心を打ち砕かれ、実の姉のように慕っていた雫に見限られて、樹に対して、ゆっくりと暖めていた恋心も致命的なダメージを受けた。 (ああ……そうか……) 龍一はいつものようにフラっと、担任から逃げるために家を出た。 そのまま、新宿まで出てきた。 ここは、他人には無関心だ。 未成年が無茶な酒の飲み方をしていても、店員は何も言わない。 迷惑にならなければ、別にいいのだ。 いつものように現実から逃れるために酒をがぶ飲みし、夜半過ぎから雨が降りだした街をフラつき……。 (路地裏のビルの間に倒れこんだんだっけ……) 視界の中にそびえ立つ古びたビルの間から、夜の闇が見える。 この冷え込み方は、もしかしたら明け方に近いかもしれない。 銀色の糸のような雨がひっきりなしに龍一を打つ。 ――体が熱い……。 朦朧としてきた意識が目を霞ませる。 その時、影が視界を遮った。 (誰だ……?) ぼやけた視力で見上げる。 (天使……?) 紅玉(ルビー)の瞳。ばらばらの長さに切られた銀色の絹糸のような髪。 その髪の先からは、雨が伝い落ちる。 (違う……。悪魔?いや、死神かも……) 人ではないような、無性の美貌。魂を吸い取りそうな深さを感じる瞳。 妖しいまでに紅い口唇が動き、何かを問う。 しかし、龍一の意識はそこで途絶えた。 「う…ん……」 体が熱く、息苦しさに龍一は目を覚ました。 鉛のように体が重く、頭がガンガンと痛む。 霞んだ視界に目をこらし、ゆっくりと視線を巡らせる。 パイプが剥き出しになっている天井。 コンクリート、そのままの壁。 龍一は自分が寝ているベッドが、そんな部屋には不似合いなキングサイズの大きいものだということに、しばらく経ってから気づいた。 気づいたが、自分が何故ここにいるのかはまだわかっていなかった。 「……みず…」 体の望むものを無意識に口に出したが、その声は酷く掠れていた。 起き上がろうとするが、まるで自分の体の中にとてつもなく重いものが入ったかのように動かない。 龍一は大きく息をつき、あきらめて頭を再び枕に沈めた。 ギキィ 鉄の軋む音ともに、ドアが開いた。 かったるそうにそちらに視線を巡らせた龍一は次の瞬間、息を呑んだ。 「あ。気がついた?」 小柄な少年が、洗面器を両手で抱えながら入ってきた。 龍一が驚いたのは、その少年の髪の色だった。 銀色―白金でも金でも白でもなく、本当の銀色なのだ。 言葉が見つからない龍一の顔を少年が覗き込む。 「具合、どう?」 血のように紅い瞳が心配そうに自分を見つめる。 「どう?」 再び問われ、やっとの事で龍一は我に返った。 「まだ、少し熱はあるようだけど?」 「あ、ああ。なんとか、大丈夫そうだが……」 ここはどこだ?と目で問う。 少年は少し安心したように息をつくと、龍一の額にのっている、すっかり生ぬるくなったタオルを絞り直す。 「あんた、このビルの横でぶっ倒れてたんだよ」 顔に似合わない乱雑な言葉使い。 「大変だったんだからな。すげぇ、熱あるし、ここエレベーターないから3階まで担いでくんの」 「……すまない…」 龍一自身、こんなに不甲斐ないものだとは思わなかった。 樹を失い、ここまで自分がダメになるとは想像もつかなかった。 もっとも、樹を失うということを考えたことがなかったのだから、当たり前と言えば当たり前だが。 「お前さ、最近この辺りに来てるよな?」 「ああ、そうだな」 水の入ったコップを受け取りながら、ややもすれば冷たく感じる声で応じた。 「やっぱり」 何が嬉しいのか、少年が微笑む。 「何かさ、ここ辺りで男アサリしてる女達が噂してるよ」 「噂?」 「うん。結構、かっこいい高校生くらいの男で、声かけたのに全然靡かなくて、誰が落とすかって競争になってる」 そういえば、と思い出してみる。 家にいたくなくてフラっときたこの街で、色んな店に入ってお酒を飲んだ。 バスケで鍛えている183cnの体躯はしなやかさを持っていて、その秀麗な顔立ちで、悲しそうな瞳をしている龍一を女、特にお姉様方がほっておくわけない。 もちろんあの手この手で誘いをかけるが、当の龍一は相手にしない。 (俺が欲しいのは樹だけだ!でも、樹はいない!) むしろ、その度にその事実を突きつけられ龍一を打ちのめす。 「失恋でもしたの?」 突然の刃(やいば)に、龍一はきつく眉を顰めた。 「げ。まじ?俺、地雷踏んだ?」 龍一から何の答えもなく、それが肯定だとわかった。 気まずい沈黙が2人の間に流れる。 「あ、あのさ……。名前……」 躊躇いがちな問いに龍一はふと表情を和らげた。 「龍一、小野寺 龍一だ」 「龍一ね、OK。俺は、亘(こう)」 「……名字は?」 「ない」 あっさりとした口調で少年―亘が答える。 「ない?」 「うん。俺、捨て子だから。2年前―12の時、施設を飛び出た。それ以来、ここに住んでる」 「住んでるって……。どうやって生活を」 言葉はそこで途切れた。 亘の口唇が龍一のそれを塞いだから。 「んっ」 一瞬、戸惑った龍一の舌を、構わずきつく絡め取る。 龍一は悟った。 亘は、誰かの手の中、ぶっちゃけて言えば囲い者として暮らしているのだと。 そして、その誰かというのが男だということも。 何かに脅えるように、追いつめられるように口づけてくる亘を、やんわりと優しく受け止めてやる。 哀しかった。 樹を護りきれなかった自分。 今また、自分を慰めようとしている年下の、人とは違う美貌を持つ少年をどうにもしてやれない、情けない自分。 自分の不甲斐なさが哀しい。 「……ちくしょう……」 いつの間にか解かれていた口唇が呟く。 龍一の頬を涙が伝い落ちる。 「泣くなよぉ」 ルビーの瞳が泣きそうに揺らめく。 「ちくしょう……。強くなりたい。護りたいものを護れるほど強くなりたい!」 噛み締めた口唇が血を流す。 亘がそれを舐め取り、龍一の上に馬乗りになってきた。 「亘?」 「今は忘れろよ」 「亘……」 亘の意図を悟る。 龍一の目を見つめたまま、亘の手がゆっくりと下にのびていくのを龍一はあえて止めない。。 どちらも逸らさない。お互いしかいないことを納得させるかのように、見つめあう。 「俺が、天使になってやる」 「!!」 「うなされてた。天使がいないって……」 「こ……。くっ」 熱い口腔に呑みこまれる。 決して経験がないわけではない。 かといって、疲労したときに性的快感を求める男の本能を抑えこめるほど色事に馴れてるわけでもなかった。 「はな…せ、亘」 「……いや?」 「違う」 あまりに性急すぎる射精感の高まりに抑えが効かない。 「いいよ。イってよ」 それがわかった亘が促す。 きつく吸い上げられ、あっけなく灼熱の固まりが解放された。 しかし、解放されたそれはまだ萎えることなく存在を誇示する。 「亘!」 龍一の声が焦りを帯びる。 亘は自分が着ているもの一切脱ぎ捨てると、再び龍一に跨った。 そして、ソコで呑みこもうと腰を落とそうとしたのだ。 「……やっぱり、男はいや?」 仕方なさそうに微笑む。 その微笑みに龍一は首を振る。 「男とかは問題じゃない。現に、天使―樹は男だ」 驚きに目を見開き、何かを問おうとした口唇に自分の指を含ませる。 一瞬、ひいた亘はすぐにその指に舌を絡ませ始めた。 「このままじゃ、お前がつらい」 その言葉に紅い瞳が瞠目する。 次の瞬間、それが潤み、涙を零す。 「何故、泣く?」 ゆっくりと指をひきながら、逆の手で頬の涙を拭ってやる。 ―亘の庇護者は、あまりタチのよい人間ではない。 少なくとも関東の極道に知らない人間はいないと言われるほど力のある祖父を持ち、父も兄たちもそれなりに、その名前が知れ渡っている。 そんなエリート(?)の一族の中で鼻つまみになっている、どうしようもない男―藤堂 正則(とうどう まさのり)が、そうだ。 『虎の威を借る狐』そのもののくだらない男だ。 亘に目をつけたのも、ただ物珍しい玩具を手に入れたくらいにしか思っていない。 気が向けばこの部屋を訪れ、やりたいようにやって帰ってゆく。 少しでも抵抗を見せた亘を容赦なく殴り、気を失いそうになったのも、一度や二度ではない。いや、実際に失ったこともあり、正則の世話役が医者を呼ばなければ、そのまま、この世から消えてもおかしくない状態になったことさえある。 龍一にとっては当然の、亘にとっては触れたことのない優しさ。 どうしていいか、わからない。 わからないから、龍一のなすがままになる。 優しく腕を引き寄せられ、その促すまま龍一の隣に横たわる。 「!」 すっぽりと腕の中に抱きしめられた。 すぐに規則正しい吐息が髪をくすぐる。 それが狸寝入りだということはわかりきっている。 どこぞのネコ型ロポットを飼っている男の子ではないのだから、こんな瞬時で眠れるワケがない。 「ふっ…くぅ……」 熱い何かがこみ上げてくる。 「……泣けばいい」 ぐいっと頭を引き寄せられる。 「う、くぅ……うあぁぁぁぁ――」 声をあげて泣いたのは久し振りだった。 子供のように頑是なく首を振りながら、泣く。 ずっとどうにかして欲しくて、でもどうもできなかった自分の境遇に諦め、流されていた。 転げ落ちるように流されている自分を抱き止めたのは、雨の路地裏で失恋の痛手を抱えながら、うずくまっていた男。 大人びて見えるが、まだ少年と言ってもおかしくない年齢だとは思う。 そんな彼に、自分の境遇をどうにかできるワケではない。どうにかさせるつもりなど、毛頭ない。 でも、ほんの少しの間だけど溺れている自分を水面に引き上げてくれた。 まだ、大丈夫。まだ、生きてる。 そう自分に言い聞かせた――……。 泣きつかれた華奢な体は、やがて規則正しい寝息を零す。 恐らく、樹よりも小さいだろう。そう言えば、家に逃げてきた樹をこうやった抱きながら眠ったこともある。 比べられない事とは思うが、樹はまだ幸せだったのではないだろうか。 少なくとも樹には雫と自分という味方がいた。 でも、この脆さを秘めた少年にはいない。 樹には、これから先、護ってくれる人間が現れたのだろう。 だから、自分はいらなくなった。 でも、亘には……。 そこまで考えて、龍一は、否、と薄暗い空間を睨みつけた。 だめなのだ。こうやって抱きしめているだけでは。 動かないから。 今ならわかる。 護るために自分まで守りの体勢をとってしまったために、樹を失った。 では、どうする? このままでは、亘が壊れてしまうような気がする。 ならば、それを止めるためには――。 発熱によるだるさはもうなかった。 |
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