始まりとこれから | |
ぽっかりと目を開けると見慣れない天井が飛び込んできた。 えっと……?ここは、どこだろう……。 「樹?」 優しい声に呼ばれる。 「……桜井さん……」 「体は?痛いところはないか?」 痛いところ? そっと体を動かすと、途端に背筋の終点に痛みが走った。 思わず眉根が寄る。 「大丈夫か?一応、手当てはしたが……」 手当て? ゆっくりと体を起こすと、ピリっと痛みが走ったが、我慢できないほどじゃない。 体を見下ろせば、ベルトは緩められているが、服をつけていた。 「あ!」 つまり、あの後、僕は気を失って、桜井さんが全部後始末を……。 かぁっと頭に血がのぼる。 どうしようもない羞恥が、僕を毛布に潜り込ませた。 「樹!?」 僕は無言のまま固まっていた。 「樹?怒ったのか?」 僕は首を振る。 「じゃあ、何で出てきてくれないんだ?」 ぶんぶんと音がしそうなほど首を振る。 「樹?」 「は、恥ずかしいからに決まってるでしょう!?」 一瞬、沈黙する。 くすっという笑いが毛布越しに聞こえた。 「何が恥ずかしいんだ?あんなに可愛かったのに」 意地の悪い声にますます羞恥が襲う。 「可愛い声で啼いて、すがってきて」 そこまでで耐えられなくなり、がばっと起きると両手で桜井さんの口を押さえる。 「ひゃん!」 その手のひらを舐められて、素っ頓狂な声が出る。 慌てて引こうとすると、その手を掴まれた。 「あ……」 まっすぐと見つめられ、思わず俯いてしまった。 「愛してる、樹」 はっと顔を上げると、思いのほか、真剣な眼差しが僕を捕らえる。 「愛してるよ、樹……。樹は?」 「……」 「樹?」 「……き」 「え?」 「僕も、好き」 抱きしめられ、この上なく幸せで、何かしっぺ返しがきそう――。 2人で寄り添うようにホテルを出た。 周りはすっかり真っ暗になっていた。 神社を出たのが、お昼を食べてすぐだったから……。 僕、どのくらい意識を失っていたんだろう……。 「雫……」 桜井さんの声に慌てて顔を上げた。 「ね、姉さん……」 僕が見たことのない厳しい顔で、姉さんが立っていた。 つかつかと歩み寄ってくる。 どすっ 「っく!」 え? 僕のすぐ横で鈍い音がして、桜井さんが体をくの字に曲げる。 「さ、桜井さん?」 一瞬、何が起きたかわからなかった。 「ってぇ……。雫ぅ……」 恨みがましい視線で姉さんを見る。 そうだ! 「姉さんっ!」 僕の剣幕に一瞬姉さんが引いた。 「なんで、桜井さんが姉さんの事知ってるの!?」 意気込む僕を片手で押さえると、姉さんは思いのほか厳しい目で僕を見つめる。 今までこんな険しい表情姉さんは見たことない。 姉さんはいつだって、僕を優しく見ていたのに。 別人のように見える。 「その前に、樹」 「はい」 思わず背筋を正してしまう。 「樹は一哉が好きなの?」 「え?」 うろたえてしまうが、姉さんの目は逃げることを許してくれない。 「樹?」 「う…ん。好き」 言ってから急に恥ずかしくなった。 「よかったね」 ふわっと姉さんが微笑む。 そう。いつもこうやって僕の嬉しい話を聞いてくれる。 姉さんだ! いつものように、抱きつくと横から桜井さんのわざとらしい咳払いが聞こえた。 見るとお腹をさすってる。 「え?どうしたの?桜井さん……お腹……」 「見てなかったのか?君の姉さんにやられたんだよ」 あ!じゃあ、さっきの鈍い音と桜井さんがうめいたのは、お腹を殴られたから…。 え?殴られた?姉さんに?ん〜っと……。 「そうだ。まだ答えてもらってないっ!」 「何、突然」 「何で姉さんと桜井さんが知り合いなの!?」 「……樹。覚えてる?去年の9月くらいに定期券失したでしょ?」 「うん。桜井さんが倒れそうになった僕を介抱してくれたときでしょ?」 「そう。その後にね、一哉は定期券を返そうと、あなたのことを探していたの」 「うん。聞いた」 「で、その話を知り合いから聞いて、おかしいと思ったのよ」 「え?なんで?」 「だって、普通は落とし物の定期ならば、駅員に渡せばいいことでしょ?それなのに、なんでわざわざ探しているのか、疑問に思ったのよ」 「あ、そうか……」 失したと思って、駅の落とし物の係りの人に届いてるか訊いたんだよね。 「それで、こっちから直接、一哉に接触して、色々聞いたら、あなたに一目惚れしたっていうから」 「雫は、可愛い弟に虫がついちゃいけないっと思って、俺を遠ざけようと色々やってくれたよ」 「色々?」 「そう」 「一哉!」 姉さんが諌めるように睨む。 「……これから、少しずつ教えてあげるよ」 そこで、桜井さんの口元から笑みが消えた。 「約束だ。樹を俺にくれ」 「……いいわ。ただし、樹を泣かせたら」 目を細め、剣呑な眼差しで桜井さんを睨む。 「……ぶちのめすからな」 低く告げる。 その殺気に背筋がゾクッっとわなないた。 ――それから、姉さんは僕が一哉と会うために、色々と協力してくれた。 会社が休みな日曜日は、僕と出かけるということにしてくれて、勉強しろとうるさい父さんを牽制してくれた。 大好きな姉さんと一哉に大切にされて、嬉しかった。 幸せだった。 その反面、いつか大きなしっぺ返しがあるんじゃないかと不安だった。 決して表に出せる関係ではない。特に、一哉には世間体というものがある。 そう言うと、一哉は笑って大丈夫だと言ってくれた。 でも、あまりにも早く、それはきた。 3日前のバレンタイン。 もちろん一哉と過ごすつもりで、姉さんの口添えで友達のうちに泊まるということで、外泊をした。 一哉は自分の部屋ではなく、一流ホテルのスウィートルームに僕を招待した。 嬉しかった。 ――知らなかったんだ、そのホテルで学会があり、それに父さんが出席しているなんて。 その上、あの広いホテルの違うフロアにいたのに、それなのに、偶然に一哉といるところを見られたなんて。 それからの父さんの行動は早かった。 知り合いの興信所の人に、僕と一哉の関係を瞬く間に調べさせた。 そして、1時間前――。 出かけようと玄関で靴を履いていた僕と姉さんを、父さんは『書斎に来い』と命じた。 重厚な作りの机の上には、一哉と腕を組んでいる写真があった。 「これ……」 ガッ 瞼裏に火花が飛び散った。 「樹!」 殴られ、僕は尻餅をついた。 姉さんの声が遠くに聞こえる。 一瞬、意識が遠のいたようだ。 「なんなんだ!?この男はっ!?」 父さんの激昂した声が耳をつんざく。 口の中に鉄の匂いが拡がる。 「いや!この男が誰なのかは関係ないっ!」 よかった、一哉が誰なのかはわかっていないみたい……。 「お前という奴はっ!どこまで、私の顔に泥を塗れば気が済むんだっ!」 バンッ 机を叩く音にビクっと背が震えた。 その背を庇うように姉さんが抱きしめる。 「お前なんぞ、生れてこなければよかったんだ。愛莉を奪ったお前なぞっ!」 愛莉というのは僕たちの母さん。 「どけっ!雫っ」 バシッ 父さんの平手が姉さんの頬を打つ。 「姉さん!」 怒りが込み上げる。 思わず父さんに掴みかかろうとすると、姉さんが後ろ手に僕の手首を掴み止めた。 「なんだっ!?その目はっ!!」 「……うるさいよ」 低く、怒りのこもった声。 「なんだとっ!?」 「うるさいって言ったんだよ!」 思わず状況を忘れて、姉さんを見上げた。 毅然とした横顔。あまりにも凄艶としていて、僕を惹きつける。 今まで、姉さんは父さんに口答えしたことがない。 しかも、こんな乱暴な言葉使いもしたことがない。 父さんの拳がぶるぶると震えている。 「な、なんだっ、その口の利き方はっ!?それが親に対する言葉使いかっ!?」 「親?」 尻上がりの馬鹿にしたような口調。 「言っときますけど、私はあなたを父親なんて思ったことありません」 「なんだとぉっ!?」 グゥアッシャ――ン! 机の上の灰皿が投げられ、姉さんがなんなく避けたそれは、僕らの後ろの窓をぶち破る。 「……私は、あなたを父親と認めない。母さんとの最期の約束も忘れ、愛した女が死んだことを息子に八つ当たりし、子供は自分の思い通りにあると考えている、馬鹿な男など、誰が親と認めるものか」 決して、荒くない。むしろ穏やかな口調が怒りを感じさせる。 父さんは声も出せずにワナワナと震えているだけだった。 そして、いきなり身を翻すとそこにあったゴルフクラブを取り上げた。 ドカッ 間一髪、避けたクラブが床にめり込む。 腕を掴まれ、引っ張られるようにに立ち上がる。 ドンっと背を部屋の入口に方へと押される。 「姉さん!?」 「行きなさいっ!」 「え?」 「行きなさいっ!」 再び、背を押され部屋の外に出される。 扉の向こうで物が破壊される音がする。 その音から逃れるように、僕は玄関に置きっぱなしだった財布をひっつかんで、家を飛び出た。 「御浜海岸〜。終点です」 アナウンスに我に返った。 殴られた際に切った口唇の血はもう止まっていた。 一哉のところには行けなかった。 だって、一哉には世間体っていうものがあるし……。 それに、まだ信じられないんだ。 僕が本当に必要なのか……。 家にはもう戻れない。 一哉のところも駄目。 行くところがない。 フラフラと歩いていたら、目の前に海があった。 コンクリートで固めた岸壁。 足元にはテトラポットの山。 何かに引かれるように、岸壁を降りる。 ちゃぷちゃぷと波がテトラポットにあたり、音をたてる。 僕は座り込んだ。 このまま、ここにいようかな。 そうすれば、きっと母さんが迎えにきてくれる。 顔なんて覚えていないけど、母さんだって僕が分からないかもしれないけど。 一哉はもてるし、姉さんだって大丈夫。 僕が死んでも、誰も困らない……。 「……き」 「え?」 名前を呼ばれた気がして振り向いた。 その視界に……。 「か、ずや……」 無意識のうちに呟いた。 「樹!」 ほんの少し先に一哉がいる。 「ど……して?」 「雫が連絡をくれた」 「姉さんが?」 「樹。俺と暮らそう」 「え?」 「俺と暮らそう」 嬉しさのあまり、涙が込み上げる。 でも、僕は首を横に振った。 「だめ……」 「何故?」 「だって、変だよ?男同士だよ?バレたら、一哉困る」 「そうだよっ!男同士だよ!だから、何だ!?」 強い声にビクッと背が震えた。 「俺だって、悩んだ。泣いてるお前に声をかけるべきか、どうか。でもな、樹。俺には、お前が必要なんだ」 一哉の姿が滲む。 「う、えっ……」 泣き声が漏れる。 「一緒に暮らそう……。これから、ずっと。一緒に生きよう」 暖かい抱擁。 涙が止まらない―― 手に入れた。 僕の本当の幸せ。 昔、僕に魔法の呪文のように言い聞かせてくれた姉さんの言葉を思い出した。 ― いい?樹。『始まり』は『終わり』のためにあるんじゃないの。 『これから』のためにあるのよ。 だからね。始めることを恐れちゃ駄目よ ― 幼かった僕には理解できなかったこと。今やっとわかった。 僕は一哉と生きるために、この恋を始めたんだ。 あの暑かった日。 一哉と出会い、そして冬の日。 一哉が始めてくれた恋。 それは、終わりのあるものではなくて、 これから続くものだったんだ―― |
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