<<Back | 1 | 2 3



始まりとこれから
―― 2月17日 僕は家を飛び出た。
バレンタインに姉から貰った真新しい財布を引っつかんで。
滅多に降らない冬の雨の中、傘もささずに駅まで走った。
霧雨のような雨は、容赦なく僕を濡らす。
何かを考えていたわけではない。
ただ、ホームに滑り込んできた電車に飛び乗った。
切れた口唇に、小さな痛みが走る。
しばらくして、彼と出会った時と同じ行き先の電車だと気付いた ――

僕が家を出たのは、僕の恋人の存在が父にバレたからだった。
9歳年上で、一部上場企業で働いている。
確かに歳は離れているが、そんなことは何てことない。
一番の問題は――同性、つまり男の人だ、ということだった。
唯一、良かったことは、父に彼がどこの誰なのかまではバレてなかったことだ。

1月3日。まだまだ、お正月の雰囲気が漂っていた。
この電車と同じ行き先の電車の中で出会うまで、全くの他人だった。

―― 最悪の気分だ……。
ずっと憧れていたあの子に彼氏がいるなんて知らなかった。
幼馴染みの龍一(りゅういち)に誘われて来た初詣。
その人混みの中、見てしまった。
あの子が誰か、男の人と腕を組んでいるのを。
そして、ちょうど僕たちの前にいた、多分彼女と同じクラスの女子生徒の会話が、呆然と2人を見ていた僕の僅かな望みも打ち砕いた。
「千絵美ったら。あの嬉しそうな顔」
「まあ、自慢の彼氏だし。うちらと初詣をした後、待ちあわせてるなんて、自慢するために決まってるじゃない」
「ねえ〜。大学生でしょ?」
「うん。何か、中学の時の家教だって」
「え〜。じゃあ、その頃からなの」
「だってさ」
後の会話が耳に入らなかった。
龍一が、僕を呼んだ気がした。
でも、そのまま僕は人混みをかき分け、はやく神社の外に出たかった。
何かを考えてたわけでもなくて、ただ駅に向かって、ちょうど来た電車に乗った。
家に向かうのとは反対方向の電車に。
ドアの上の電子掲示板を見ると『 御浜海岸行き 』だった。
その掲示板の文字が揺らいだ。
向かい側に座る女の人が驚いて、僕の顔をじろじろ見る。
と、その時、目の前に大きな影が立ちふさがり、僕の視界から女の人が消えた。
「……?」
見上げた僕は、優しく見下ろす男の人の瞳を見つめた。
「……泣きたいなら泣けばいい。俺が隠してあげるから」
そう言って、彼はそのまま視線を窓の外に転じた。
一瞬のデ・ジャ・ヴュ。昔、こんな揺らいだ視界の中でこの人を見た気がする。
その時になって、視界が揺らいだのは泣いていたからだということに気づいた。
気づいたら止まらなかった。

彼女――隣りのクラスの相原 千恵美(あいはら ちえみ)は、僕の初恋だった。
高校1年、16歳になって初恋なんて、珍しいと言われた。
でも、本当なんだからしょうがない。
僕は自他共に認めるシスコンだった。
事実、相原さんは、なんとなく雰囲気が姉に似ていた。
2つ年上の姉さんは、掛け値なしの美人だと思う。
僕を産むために命を引き換えにした母に似ているという。
確かに僕も母に似て女顔で、165cmしかない身長も手伝って、私服だといまだに女の子と間違われるが、僕と姉さんとの大きな違いは、頭の良さだった。
姉さんは高校3年で、受験で殺気立つこの時期でも余裕で、時々日曜日、僕と一緒に買い物に行ってくれる。
聖ルカ学院という名門進学校の常に首席だそうで、T大確実と言われている。
T大で教授をしている父の自慢だった。
片や、僕は家からすぐの私鉄の路線上にある駅の近くの私立高で、偏差値で言えば中の下。
その学校に補欠というギリギリやっとのことで入学できた。
そして、決定的な違いは、僕は父に憎まれている、ということだ。
当たり前だ。父の最愛の人の命を奪ったのだから……。
幼い頃から父に、『お前は人殺しだ』と言われていた。
そんな父や周りの大人達からかばってくれたのが、姉さんだ。
僕は、相原さんにもそんな姉の優しさを求めていた。
僕の味方だと勝手におもっていたんだ。
でも、相原さんが優しくするのは、一緒に歩くのは僕じゃなくて――

「うっく……」
みっともなく、喉がなった。
チラ、と見上げると彼は窓の外を見続けている。
「すみ、ません」
謝罪の言葉も途切れ途切れになってしまう。
「……行き先はどこ?」
視線を僕に戻して優しくきいてくる。
一瞬、その優しい眼差しに思考が止まった。
あまりにも綺麗で、格好良くて、大人になったらあんな優しい目で人を見ることが出来る男になりたい。
それに比べて僕は――。
僕は、しゃべるとまたしゃくりあげてしまいそうで、ただ首を横に振った。
振ってから気づいた。
この人には目的地があって、でも僕が泣き止まないから困ってるんだ。
「すみません。ここで降りますから」
ちょうど、駅に停車してドアが開いた。
慌てて僕は立ち上がる。
と、彼が僕の腕を掴んだ。
「あ、あの……?」
そのまま引きずられるように電車を降り、改札を出る。
もっとも僕は定期券で入ったから、乗り越しの清算をしなければならなかった。
彼は定期券で通れた。たぶん、区域内なのだろう。

「えっっっ!?」
僕は驚いた。手をひかれ連れて行かれた場所は、その……よく駅から少しはずれたところにある、いわゆるラブホテルだった。
驚いている間に、彼は手慣れた様子で、自販機のようなものにお金を入れ、取り出し口から取り出したのは――鍵だった。
よくわからないまま、ラブホテルってこんな風になってるんだ、などとワケのわからないことに感心した。

部屋に入るなり、彼はバスルームに僕を押し込んだ。
「ここで、顔を洗っておいで」
にっこりと微笑まれる。
その視線につられるように鏡を見ると、最悪の顔があった。
鼻の頭と瞼と目を真っ赤にして、涙の跡を頬に無数走らせた僕の顔。
こんな顔で歩いていたなんて……。
羞恥に頬まで赤くなるのがわかった。
その様子に彼はくすくすと笑いながら、僕の頭を一撫でするとバスルームから出ていった。
撫でられた頭がなんだか暖かかった。

冷たい水で顔を洗い、幾分か火照りが引くと僕はバスルームを出た。
「…・・ああ。そのプレゼンの資料は、JOBフォルダの中に……そう。それだ。頼む。……ああ。オッケ。今度奢るよ」
彼は携帯で、話の内容からすれば、仕事の話をしていた。
お正月なのに、仕事なのかな?
そう言えば、仕立てのいいスーツを着ている。
たぶん、身長は180以上あるだろうな。
顔立ちも精悍な感じがするし、きっと女の人にもてるだろうな。
声も低めのバリトンで、体の奥底に響くような感じがする。
「じゃあな」
と言って電話を切ると、所在なさげに立っていた僕を手招きした。
「すみません。お仕事中なのに……」
僕が謝ると彼は笑みを深めた。
笑うと少し目尻が下がる。
「気にするな。正月に仕事しているほうが悪い」
と言いながら内ポケットに手を入れると、名刺を取り出した。
「すまない。こんなところに連れてきてしまって。俺はこういう者です」
おちゃらけた感じに名刺を僕に渡す。
―― 山泉商事 東京本社 第一営業部 桜井 一哉(さくらい かずや) ――
山泉商事は、僕でも知っているくらい大きな会社だ。
「……桜井さん…・あ、すみません。僕、漆原 樹(うるしばら いつき)です」
慌てて名乗った。
「樹くんだね」
「はい。あの、すみませんでした」
桜井さんは笑みを深めた。
その笑みになんでか、心臓がどくんとなった。
「気にしないでいい。たっぷり、下心付きだから」
は?え?え?今、なんて言った?下心?え?なんの?あれ?
頭の中に?がぐるぐると回る。
「し、下心って?」
「こういうこと☆」
彼が本当に嬉しそうに笑った。
一瞬、それに見惚れた。
あれ?
気づけば……え?ベッドの上?
ぽうんといった感じで体が弾む。
「あの……」
そこまでしか言えなかった。
え―――――――!?
「ん―!!」
抗議の声は、僕の口唇を覆った彼の口唇に吸い込まれた。
こ、これって、もしかしなくても、キス―――!?
「んんっ」
なんとか逃げようとするけど、う、動かない!
そんな力がかかっているようには感じないんだけど、彼の下から逃げ出せない。
「ん!」
ぬるっと柔らかいものが口の中に入ってくる。
気持ち悪いと思う前に上顎を舐められ、何かお腹の下辺りがズキンとした。
「っふ、んっ」
鼻に抜けた甘えたような声が出る。
頭がクラクラしてくる。
視界が靄がかかったようになり、彼の手がそっと瞼を覆うとそのまま目を閉じた。
「っ!!」
悲鳴を上げたつもりだったが、それは彼の口中へと消える。
だ、だって、彼の手が僕のソコをズボン越しに触ったんだ!
そりゃ、自分で触ったことはある。けど、快感なんて縁遠い感覚で、好きな人じゃなきゃだめなんだと思ってた。
でも、彼に触れられたソコは、痺れるような熱さを感じる。
その熱を煽るかのように、彼が手を蠢かせる。
ますます頭がボォっとして、ワケがわからなくなる。
「んっ、あ、はぁ……」
一際、舌が強く吸われたと思ったら、いきなり解放され空気が肺に流れ込む。
その衝撃に、僕は噎せた。
ど、ど、ど、どうしよう。キスしちゃった。
「さ、桜井さ……ん……・」
みっともないほど、ぜぇぜぇと言いながら、解放された体をベットヘッドのほうへとズリ上げた。
しまったと思った。僕だって、だてに16年間、女顔はやっていない。
悲しいかな。僕はよく女の子と勘違いされてか、男にキスされそうになったことが多い。
でも、何故か姉さんがかけつけてくると、上級生も不良も潮が引くように逃げていったし、それに僕の傍にはいつも龍一がいたから。
龍一がよく僕を庇ってくれてた。
で、そのうちそんなこともなくなった。
「あ、あの。僕、男ですよ」
どう見ても、男の服を着てるし、大丈夫だと思ったけど、まさかこの人も僕を女と勘違いしているのか?
だから、こんなラブホテルに―――!
「もちろん、知ってる」
はい?知ってる?
「え?知ってるって?え?あれ?でも、キス――」
言ってから、気づいた。
だって、桜井さんの手は僕の、男の証であるソコに触れたのだから。
今もジンジンと痺れるそこは、彼に擦られたからであって――
一気に血が昇った。顔が真っ赤になっているのも自覚できた。
桜井さんがくすっと笑みを零した。
「他人に触られるのは初めて?」
ギシッ
ゆっくりと桜井さんの体が近づく。
後ずさりしようにも後ろはもう壁。
どうしよう……。

ちゃんちゃららんちゃん――
一触即発の空気を打ち破ったのは、僕のPHSのメロディだった。
それでも、動けない僕のジャケットの内ポケットに桜井さんの手が伸びる。
「!」
何されるかわからず、思わずギュッと瞳を閉じた。
ピッ
え?
PHSの電子音に目を開けると桜井さんの手には僕の――姉さんがくれたPHSが握られていた。
「出ないのか?」
目の前に差し出されたPHSのディスプレイには『しずく』と表示されている。
慌ててひったくるようにPHSを取ると、耳にあてた。
「姉さん!!」
そう。いつも、僕が困ったときには姉さんが助けてくれる。
『樹?今、どこにいるの?龍ちゃんが……』
「姉さん!助けて!」
姉さんが何か言おうとするのも構わず、僕は助けを求めた。
『どうしたの?樹!?どこにいるの!?』
姉さんの声も緊張を帯びる。
「今、あっ!」
勢い込んで告げようとして、桜井さんにPHSを取り上げられた。
「樹くんは今、俺と市谷駅の近くの『シャトールージュ』というラブホテルにいるよ」
そこで桜井さんは一旦言葉を切り、瞳を閉じた。
「迎えに来いよ。雫(しずく)」
そのまま切断ボタンを押す桜井さんを呆然と見つめた。
「……んで?」
「ん?何?」
「何で、姉さんのこと知ってるの?」
「それは、雫が来てから教えるよ」
にっこりと微笑む裏に何かを感じた。
桜井さんは、煙草に火をつけると僕から視線を逸らして窓の外を見つめた。
その横顔がなんだか嬉しそうだった。
もしかして……。
もしかして、姉さんに会えるから?
そう思うと何もかもが納得のいく形に収まった。
電車の中で僕を庇ったのは、僕が姉さんに似ていたから。
桜井さんは姉さんが好きで、たまたま僕を見て……。
僕は知っている。姉さんはたくさんの男の人から交際を申し込まれたことがあるのを。
そう言えば、一度だけ。姉さんが中学生で僕がまだ6年生だったとき、龍一が委員会で遅くなったため、僕1人で下校中、高校生に捕まった。公園の片隅にある東屋にたくさんの高校生に囲まれたことがある。そして、そのリーダーらしき人が姉さんを呼び出した。
もちろん姉さんはすぐに来てくれて、その時、そのリーダーの人が突然土下座して『結婚を前提に付き合って下さい』と言った。
つまり、僕は人質だったんだ、姉さんを呼び出すために。
その高校生とどうなったかは、知らない。一緒にきた龍一と先に帰るように言われたから、そこにはいなかった。
だから、たぶん。今回もそう。
だってよく考えてみれば、男の人が男を好きになるなんて変だもん。
普通はない。
桜井さんはあまりにも僕がべそべそ泣くから、からかっただけなんだ。
なんだ―――
からかわれただけなんだから、本当は安心していいのに、何だか残念がっている自分がいて、わからなかった。
なんで、残念なんだろう……。姉さんは自慢の姉さんで、男の人にもてるということは誇らしいことなのに。
なのに、桜井さんが姉さんを好きだということになんで傷ついてるんだろう……。
なんでだろう……。
自分のことなのに全然わからなくて、いらいらする。

ちゃんちゃららんちゃん――
そんな取り止めのないことを考えている僕を我に返らせたのは、またもやPHSのメロディだった。
なんでか、桜井さんと姉さんを会わせたくなくて、体が動かない。
鳴り続けるPHSに手が伸びない――。
桜井さんの手がPHSに伸びる。

「やだっ!」
気づけば、桜井さんの手を振り払っていた。
「樹くん?」
「やだ!姉さんには会わないで!!」
僕の手の中でPHSが鳴り止む。そのまま、留守番電話サービスに転送されたのだろう。
でも、そんなことまで気が回る余裕がない。
だって、今自分がしたことがなんなのか、わからないから。
勝手に体が動いた。

「樹くん?」
「やだ」
無性に嫌だった。
理由なんかない。
ただ、桜井さんが姉さんに愛を告げるのを見たくなかった。
幼い子供のように頑是無く首を振る僕に、桜井さんはきっと困っているだろう。

桜井さんが僕の手からPHSを取り上げる。
もう振り払う気力はなかった。
信じられない――
もしかして、僕、桜井さんが好き?
嘘!だって、そんな――
会ったばかりの人なのに……。

呆然としながら、桜井さんの綺麗な指を見つめていた。
その指がPHSの電源を切る――
てっきり、そのまま姉さんに連絡するんだと思った。
そう思って、桜井さんを見上げると、僕を凝視する瞳にぶつかった。
「さ…くらいさん……」
「どうして?」
「え?」
「どうして、俺と雫を会わせたくないんだ?」
「……だって、変だよ」
僕は脈絡のないことを言う。
「何が?」
桜井さんは、そんな僕を宥めるように訊いてくる。
「変だよ……。会ったばかりだよ……」
「そうかな?」
「絶対、変だよ!」
楽しそうな桜井さんの声に思わず、声を荒げた。
「だって、会ったばかりの人なのに、好きだなんて!」
無我夢中で言った。僕がわけがわからなくて怖いと思っているのに、桜井さんは悠然としていて、なんか頭に来ていた。
沈黙が続く――。
「あ!」
ぼ、僕、今…!
一気に血の気が引いた。
今、桜井さんに向かって、好きって言った。
「……樹くん……」
「ご、ごめんなさい。何でもありません!すみません!違うんです」
もう、何言ってるんだか……。
「樹くん」
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
顔が上げるのが怖くて、唯、無意味に首を振った。
声が涙声になる。
「違うんです!」
「樹くん」
「ごめんなさい!」
「樹!」
強く名前を呼ばれ、背が震えた。
「樹……。顔上げて?」
桜井さんの手が僕の頬を優しく包む。
「やだ……」
なおも頭を振る僕に業をにやしたのか、桜井さんの手が僕の顔を上げさせる。
「あ……」
優しく嬉しそうな瞳。
「……もう1回言って……」
「え?」
何を……?
「もう1回、好きと言って?」
「好き?」
「そう」
「僕が桜井さんを好きってことを?」
「そう。言って?」
なにがなんだかわからない。だから、言われた通りにしてしまう。
「好き……」
「うん。俺も樹を愛してるよ」
え――――――――――っ!!!
「あ、あいしてるって!?」
「言葉通りだよ。俺は、初めて会ったときから樹を愛してる」
???????( ← 大パニック!)
「夏休み明け。あの残暑の日。電車の中で倒れそうになった君を介抱した時からね」
電車?倒れる?
あ――――――――――っ!!!
そうだ!あの時。気分悪くて、途中駅で降りて、誰かに助けられたんだった。
気持ち悪くて、頭がぐるぐるしてて、お礼も何も言わないうちに駅の医務室に運ばれて、そこから救急車で病院に行ったんだ。
その時、新学期で買ったばかりの定期券を失して、お父さんにすごく怒られたんだ。
「あの時の?」
「そう。その時に定期を拾って、しばらくは何だかわからなかったんだ。樹の顔が忘れられなくて、とりあえず定期を返そうと思って、色々調べてた時、唐突に『あ。俺は樹が好きなんだ』と思ったんだ」
「☆★☆★」
何か、都合よすぎない?
どこかで冷静な自分がいる。
でも、桜井さんがすっと顔を寄せてきたとき、ごく自然に瞼が閉じた。
さっきよりも、優しいキス。
口唇を舐められて、思わず薄く開くと舌が滑り込んできた。
「んっ」
キスが深くなり、息が苦しくなる。
一瞬、クラッとなったとき、桜井さんが口唇を離した。
「いい?」
何がいいのかわからず、ひたすらガクガクと頷いた。
「もう止まらないよ?」
「うん」
早く、このドキドキを何とかしたくて、ひたすら頷いた。
Next >>